マニアック京都史学史

遠い昔、
ニホンという國で戦争がありました。
10年以上も続きました。
ニホンは、物資不足を植民地支配で補い
戦力を、徴兵制度で補いました。
ニホンは、アメリカとフランスとイギリスという國と戦っていました。
圧倒的な戦力を武器にした連合國との戦いに、
精神も物資もギリギリになっていました。
空から多数の焼夷弾が雨のように降ってきて、
一般市民も多数犠牲になりました。
「果たして?この戦争は必要なのか?」
と、疑問に感じる人たちもいましたが、
軍の命令に背くわけにはいきません。
そのため、力のない女の人、子供、老人は次々に死んでいきました。
そして、大人ではなく、大学生が徴兵される
学徒動員も始まり、
戦争は悪化の一途をたどっていきました。
そして、その日は来ました。
場所はヒロシマというところ。
8月の暑い日、
戦時中であるが、街の人たちは
普段通りの生活をしていました。
そんな時、
急に空が光りました。
その瞬間、とんでもない爆発が起こり
街にいた人は爆風や熱風で、
一瞬にして死にました。
原爆が落とされたのです。
何十万人も死にました。
そんな中、ある一家は被災地より少し遠いところに住んでましたが、
もう街には住めなくなったので、引越しをすることになりました。
場所は比較的被災の少なかった京都。
その年、戦争が終わりました。

その家族の長女は、
すくすく成長し、中学生の時に
叔父からもらったアコースティックギターにハマり
高校になると、フォークソング部に入り
自作の曲などを作るようになる。
その後、バンドを作り、オリジナル楽曲の制作に取り組んでゆくようになりました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

マニアック京都は
下京区周辺で路上ライブを行っていた。

1965年8月に自主制作シングル「トマト畑で」でデビュー
その後、12月にも自主制作シングル「終わらない一日」を発売。
翌年は路上ライブを年に200本行うなど、積極的な活動を行っていた。
しかし、その後1968年以降は、
全共闘運動など、ニホン各地でデモや学生運動が活発化し、
メンバーも活動家になるものや思想家になるものが出てきたため、活動休止を余儀なくされた。

学生運動が沈静化し、世間では四畳半フォークが流行りだした頃、
マニアック京都はメンバーチェンジをし、再始動する。
1973年当時、出来たばかりの「京都 拾得」に月一で出演し始める。
その年の9月にURCに加入し、
3枚目のシングル「アフリカ象」をリリース。
12月には早くも4枚目のシングル「神様の夏休み」をリリース。
ライブ活動も頻繁に行い、動員数も増えていった。
この頃が絶頂期といえよう。

その後は、メンバーチェンジを繰り返しながら、マイペースな活動に移る。

ベルウッドレコードからの唯一のLPである5枚目のシングル「水たまり」をリリース。
その後はフリーになり、
自主レーベル「マニアックレコード」を設立。

1979年3月には、レーベル初となるシングル
「ピアニコ」をリリース。
わずか500枚という少ロットの制作であったが、発売3日で完売し、現在は廃盤となっている。
※この曲は、元々戦前からの童謡だったものを、マニアック京都なりにアレンジし、戦争色を消しているとも言われている。
また、差別的な内容の歌詞だったため、
それをメンバーが嫌がり
その用語の部分を「ピアニコ」という造語に変えた。という説もある。

彼女らはニューフォークなどと呼ばれていたが、メンバーたちはそれに共感は出来なかった。
「自分たちは、唯一有無の存在」と自負しており、ジャンルレスをアピールしていた。

6月にシングル「名なしの子守歌」
7月にシングル「飛行船」
8月にシングル「ケメケソ」
を連続リリース。
ファンの間では、この連続リリースを
「三ヶ月大戦」と呼ばれている。
理由としては、三曲とも戦争を彷彿とさせる作品が続いたからだ。
名なしの子守歌は、戦争当時の人民の気持ちを歌っているのではないか?
飛行船は、ヒロシマ原爆の事を歌っているのではないか?
ケメケソは、戦後に流行った歌をパロディーにして歌っているのではないか?
としている。
歌っているのではないか?と記したのは、
彼女ら(マニアック京都)の歌の内容については、謎が多く、
また本人たちも「特に意味はない」と語っているからである。
この、所謂「三ヶ月大戦」は、その難解な歌詞と戦争を彷彿とさせる内容から都市伝説化し、
「反戦のマニ京」と呼ばれた時期もあったという。
人々の喪失感を歌ったこの三曲だけは、
他の作品と比べると独特な仕上がりになっている。

そして、「ケメケソ」を以って、マニアック京都は無期限の活動休止に入る。
理由は「修行がしたい」とのことだった。
折しも、その当時のニホンでは、フォークやGSといった類の音楽が衰退していく中、
アイドルや歌謡曲、パンクやニューウェーブなどが出てきた頃である。

そして、1989年
当時はバンドブーム真っ只中。
そんな中、突如として再びマニアック京都が現れる。
特に大々的な告知もなく、
吉祥寺MANDA-LA2にてライブを行い
MCで新作を出すことを発表。

その年の9月にいぬん堂から
シングル「名前をつけてくれc/w街燈」をリリース。
しかし、リリースして間もなく
マニアック京都は、再び活動を休止。

のちに、この当時のことをメンバーは
「特に意味はない。なんとなくやろうかって。」と話したことが、ある音楽雑誌のすみに掲載していた。

翌年1990年3月に、過去のLPシングルと未発表音源をリマスターした初アルバム
「マニアック京都旅行」をリリース。
(未発表ボーナストラックは、エスカレーター、かえるのうた、ラスベガス、ピアニコ(初期歌詞違いバージョン)
※これも、すでに廃盤

その後は、メンバーチェンジをしながら
不定期に活動や休止を繰り返し、今日に至る。

私としては、今年あたりに新作のリリースをしていただきたいと思ってるが、
マニアック京都のことだから、いつになることやら。
首を長くして待つことにしよう。

1994年 石井裕倫 記

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